通販市場がコンビニと百貨店を抜く

日経新聞が伝えるところによると、通販市場は2008年度に8兆円になり、百貨店やコンビニエンスストアを抜いた模様。コンビニはだいたい8兆円で、デパートは7兆2000億円。通販のうちファックスや郵便は2兆円でこれはあまり伸びていない。牽引役がネットだということは明らか。やったね、インターネット!
紙の新聞にはデパート、コンビニ、通販のグラフも付いている。これがクセモノで、これを見るとデパートの売り上げを通販が奪ったように見える。デパートが腐心だっていうしね。しかし、そーいう見方でいいのか、と思った所から私の迷走が始まるのだった。
このグラフの2000年の数字を全部足してみた所、9(デ)+6.5(コ)+2.5(通)で18兆円。そして2008年は、7+8+8=23兆円。そもそもこの前、GDP年率換算で12%減で、個人消費も低迷しているって聞いたばかりだ。なのに、どーして数字が増えているのさ…。日経新聞には書いていないのだった。多分日経新聞を読んでいる人は賢い人たちばかりなので、ちゃんとわかっているんでしょうね。でも、俺はムリです。これは「個人商店がヤバイ」っていう話なのでしょうか。「5兆円」増えとる。
思いあまってGDP統計まで引っ張って来たものの、そもそも消費は減っていない。(ただし、見た数字は額面の数字です。念のため。)あれ、俺たち貧乏になってたんじゃなかったっけ?(※確かに、年金生活者が増えているはずなので、総量が増えないということは給与所得者の取り分は減っているってことになるね…)働かないですむヒトが増えたってことは日本は豊かになったってことなの?
この間、サービスは数字としては一環して増えている。割合は微増で53%から57%と4ポイント増。逆に数字としても減っているのが「半耐久財」というカテゴリー。日本語とはとても思えないネーミングだが、調べると衣料品などを指すのだそうだ。つまりこれをまとめると、モノの消費は頭打ちで、GDPの伸びはサービスに依存していることになる。衣料に至っては長期的に減っている(※)のだ。どうりで安売り店が儲かる訳だ。医療はサービスに含まれるのだろうか…。(こちらは家計調査という別の資料がある。ただこちらはサンプル調査でサンプルの取り方には偏りも多い。)
さて、このニュース、誰か解説してくれるヒトがいないかと思って調べてみたのだが、ニュースを単純に参照しているヒトが多かった。日本通運の株も上がっているそうだが、確かに宅配業者のトラックも増えたね。
確かに景気の低迷にも関わらず通販市場は伸びているように見える。大枠だけでみると「モノ」を消費する時代から、どう消費するか(つまりサービス)という時代に突入しつつある様子がぼんやりとうかがえる。通販も「欲しいときに、より便利に」という流れの一つなのかもしれない。お買い物も、消費行動からエンターティンメントという感じだ。無為に物作りにコダわり続けていると、ちょっと違うんじゃない?と言われそうな気がする。
もう一つの流れは、例の「新聞没落」で見たネットへの移行だ。確かに既存ルートは行き詰まっているようだが、百貨店、コンビニ、通販の総量としては増えている。今までCMでブランド作りをして、チラシやSPで客寄せして、お店に来てもらうという通路しかなかったのだが、CMで認知度を上げて、そのままウェブサイトで集客、家でその日のニュースをチェックしながらついでにお買い物というパスも例外的な購買活動ではなくなりつつあるということなのかもしれない。
これをグラフにして「百貨店の凋落」として見ると、古い流通形態の没落と、新しい形態の勃興みたいにして見えてしまう。するとなんとなくありきたりの見方になり、これ以上の伸展が見られない。
経済の専門家ではないので、「本当はどう読むのか」はわからない。経済に詳しいヒトたちに、いろいろな仮説を含めた解説をしてほしいものである。

なぜ私だけが苦しむのか

すべてをなくすというのは苦しい体験だ。最初は何が起こったかわからず、次に自分を責める。そしてこの苦難には意味があるはずだと考える。しかし物事は全く伸展しないし、ましてや元には戻らない。
そのうち友達(この時点では「かつては友達だった人」になっているのだが、まだ気がつかない)がやってきていろいろなことをいう。何かの報いだという人もいるし、自己責任だという人もいる。ある人は当惑して立ち去り、ある人はしっかりしろと叱りつける。誓ってもいいが、こうした言葉は全く何の役にも立たない。そして却って孤独だと言う事がわかるわけである。友達はかつて彼らが友達だったという理由で人を苦しめることになる。なぜ災厄は善良な人にも悪い人にも起こるのか。それは何かの罰なのか。それとも神様が与えた試練なのか。
宗教心のある人にとってはこれは厄介な問題だ。ましてや宗教を職業にしている – 例えばユダヤ教のラビ – ならその苦悩はなおさらのことである。クシュナーは、2子を授かったのだが、1人はプロジェリアという病気で10歳かそこらで亡くなる運命を背負っていた。アーロンは14歳で亡くなるのだが「この子どもの命には何か意味があったのか」「この子が死んでしまうのは神様が与えた罰なのか」などと考える。そして子どもが亡くなった後、神様は決して全能ではなく、すべての災厄が神から来るものではないという結論に達するのだ。クシュナーの解釈によれば、神は自然法則や人間の道徳的自由を越えて物事を支配するということはあり得ないのだという。
クシュナーもヨブ記を考察している。最終的には、ユングと違い神を受容する内容になっている。神様がすべてを支配し、人間が何も知り得ない世界(例えば動物がそうだ。彼らは死を知らないので、死について悩む事はない)と考え合わせ、悩みや苦しみがあっても自由があり得る人間の世界を受容しようとするのである。
苦しみは去らないのだが、ある日こんなことに気がつく。時間が来ればおなかがすくし、おいしいものはおいしい。時々本を読んで感動したり、泣いたりもする。つまり苦しみがそこにあるにも関わらず、人生には別のなにかがある。確かになくしてしまったものは戻ってこないし、意味があって失ったのではないかもしれない。だけど、そこにはまた別のものがある。例えば、キリスト教ではこうしたことを「恵み」と言ったりする。
クシュナーは、苦しみは「神様が与えた罰」と捉えてそこにとどまるのではなく「こうなった今、私はどうすればいいのだろうか」と考えるべきだと結論づける。
この結論に至るまでの過程にはいろいろな反論が可能だ。例えばユングは「神が最初にサタンと賭けをして…」といっている。やはり神が仕掛けた苦難にヨブが理不尽にさらされるというストーリーなので、神が関与しないという論にはちょっと無理があるかもしれない。しかしこの人の考えの道筋が重要なのは、それが人生を賭けて考え抜かれた結論だからだ。クシュナーが指摘するようにラビの中には神は間違いようがないのだと主張する人もいる。そういう意味でも「全能ではあり得ない」という言葉には重みがある。

私だけではない

しばらくすると実は苦しんでいるには私だけではないことがわかってくる。ユダヤ教にはスーダット・ハヴラアーという儀式があるそうだ。埋葬を終えて帰って来た人は自分で食事を作って食べてはいけない。誰かに食べさせてもらわなければならないのだという。クシュナーによればこれは「悲しみを分かち合う」という意味合いがあるそうだ。
クシュナーはかつては頼りない若いラビだったのだが、自らの苦しみを通じて多くの人と自分の経験を分かち合うことができるようになる。ただ、もし「頼りないラビでいる代わりに息子がずっとそばにいる」人生とどちらを選びたいかと問われれば、息子を取るだろうと言っている。だから彼は「人生は修行であり」「息子の死にも意味があった」とは考えない。ただ、苦しみを抱えている人とそれを分かち合うことができるようになっただけだ。

工芸デザイナーの誕生

ただの工業製品だったイスや車がそれ以上の何かになるためにはそこにデザイン性という「付加価値」が必要だ。しかし、デザインは一夜にして生まれたわけではなかった。デザインは揺籃の地では花開かず、またいろいろなイデオロギーとも結びついていた。ここでは「グラフィック・デザインの歴史」を元に私的な解釈を交えつつ、ざっくりと歴史を追って見る。

ウィリアム・モリスとアーツ・アンド・クラフツ運動

産業革命の結果、ヴィクトリア朝のイギリスでは型にはまった工業製品があふれていた。ジョン・ラスキンは職人と手工業の復活(つまり、昔はよかった…)を唱え、ウィリアム・モリスに支持される。「中世には職人と芸術家の区別はなかった、なのに今はどうだ」というわけだ。その頃、工業製品を作る職人は単純労働者として扱われていた。1861年、モリスは生活と芸術を一致させようとアート・アンド・クラフツ運動を唱え、さまざまな実践活動を行った。パターン化された植物柄の壁紙などが有名だ。
モリスはマルクス主義に傾倒し、社会主義運動にのめり込んでゆく事になる。しかしヴィクトリア朝のイギリスで彼の運動が幅広く支持されることはなく、大陸に引き継がれることになった。イギリスの企業家たちはアカデミズム(伝統形式主義者)の絵を重んじ、モリスたちの作品をみとめなかったのだ。

アール・ヌーボーからバウハウス

1883年にロダン、スーラ、ルノアールなどの芸術家たちが20人組を作った。次第にアール・ヌーボーが花開く。アール・ヌーボーにはモリスの装飾性も取り入れられた。(※ある意味、作品からイデオロギー的なものが切り離された結果ということもいえる)曲線や装飾的な模様が特徴だった。(※ウィキペディアによると、次第に装飾性が増し「グロテスク」な造形に陥ったものもあったとされている。つまり多様性が一旦過度な状態に陥ったわけだ。)
いろいろな芸術を統合した総合芸術、純粋な芸術を暮らしの中に取り入れようという考え方(純粋芸術と応用芸術)、建築家の積極的な介入(つまり芸術を使って場所そのものを作ろうというアプローチ)などが見られるようになる。
この運動は万国博などを通じて海外にも広がる。1919年にはドイツにバウハウスが作られた。前にバウハウスでは画家の先生は「教授」ではなく「マイスター(職人)」と呼ばれた。ここにも工芸と芸術を統合させようという努力が見られる。
アラン・ヴェイユによると各国の取り組みには違いが見られるそうだ。

  • イギリスではアーツ・アンド・クラフツ運動と企業家が結びつかなかった。
  • フランスは豪華な手工業にこだわりつづけ、芸術がデザインにならなかった。(※白くてふわふわのイノベーションというエントリーで、フランス人の保守性について考えたことがあるのだが、社会によっては古いものが守られ、新しいものが取り入れられないことがある。)
  • 結局、ドイツだけが近代的なデザインに目覚めた。デザイナーが生まれたのはこの時期のドイツだそうだ。(ヴェイユはこういう分析していないが、国がばらばらだったことから第一次世界大戦に敗戦したというショックとも無経験ではないかもしれない。壊されたこと、再生しなければならないことなどが動機になっているのだ。ただ、ナチスドイツはその後バウハウスを閉鎖してヨーロッパ全体を破壊することになる)

アメリカ

アメリカでは1893年にシカゴで万国博覧会が開かれる。これがきっかけになりデザインが生活に取り入れられてゆく。アメリカで牽引役になったのは雑誌だった。1900年には広告の取り扱いが9500万ドルになり、やがて広告の取次店から「広告代理店」が生まれ、広告スペースを売買することになる。

アメリカの高速道路に使われるセンチュリー体が新聞用に開発されたのが1984年だそうだ。フォントの歴史はデザイン思想と多いに関係がある。イギリスのタイムズ紙がタイムズ・ニュー・ローマンを開発したのは、限られた紙面に多くの情報を流すためなのだが、これが作られたのは1932年だそうだ。開明的なフォントのヘルベティカが開発されるのはさらに遅れて1957年

雑誌がデザインを取り入れた背景には競争がある。雑誌への参入が増え付加価値競争が起こったのだそうだ。(もちろん、豊かさや経済的な自信も背景にあるだろう。この経済的な成功は1929年に大恐慌で途切れることになる。

新しい価値観が根付くまで

デザインを取り上げたのは、全く新しい価値観がどのように社会に根付いてゆくのかが知りたかったからだ。モノが情報化されてゆく過程ともいえる。やがて「消費者」という言葉が生まれ、20世紀の末には「消費生活への懐疑心」が語られることになる。21世紀初頭の日本は「もう必要最低限のもので大丈夫」「身の回りだけ快適だったらいい」という脱消費といえそうな動きすらある。
いずれにせよ、この流れを誤解を怖れずに単純化すると、懐古的なイデオロギーの成果が一般化したあと、過度の多様化を経て、豊かさに結びついてゆく過程を見てとることができる。この何かが欠けていたら、グラフィイック・デザイナーという職種も今とは違ったものになっていたかもしれない。
実際にはポスター、建築、新聞(グラフィックデザインの視点からはフォント)などそれぞれ固有の動きがあり、単純化はできない。しかし、何かが生まれ、過度な多様性を経て、淘汰されるという過程は、生物進化の過程でも見られる傾向だそうだ。
「既にあった何か」をなぎ倒して「新しいものが台頭してくる」というよりも、何もなかった所に新しいものが根付くという方が起こる可能性が高そうである。そういう意味では日本は密度がこく、更地が少ないのかもしれない。
さらに最後の視点としては、この一連の動きが「プロレタリアート」たちから生まれてこなかったという点も重要だ。ウィリアム・モリスは資産を持った起業家だったし、後の動きもブルジョアや国家(バウハウスは国家をパトロンとしていた)と結びついている。