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静岡県伊東市の田久保真紀市長が学歴問題で火だるまに


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静岡県伊東市の田久保真紀市長が学歴問題で「火だるま」になっている。東洋大学を卒業したとされていたが実は除籍だった。

田久保真紀さんは東洋大学に通っていたが学生生活の後半は殆ど大学に行かない「ちゃらんぽらん」な状態だった。このため卒業していたかどうかの認識が曖昧で、騒ぎが大きくなってから改めて学校に行き「除籍」を認識したと主張している。

本人が卒業したつもりになっているのだから卒業したも同然と本人は思い込んでいたのだろう。単位も全て取り4年の3月まで在籍していたから安心だと思っていたそうだ。常識的に考えてこれで卒業資格が得られないとは考えにくいが、なぜ除籍になったのかを調べたメディアはない。

一方で、大学卒業とは書いていないから公職選挙法に違反はしていないとも主張している。公式な文書で卒業と主張したことはなく、マスコミの資料にも「東洋大学」と書いただけだった。確認もせず卒業とみなしたのだから「メディアの確認不足」という認識なのだろう。ただこの認識だと「卒業したとは書けない」と本人が認識していたことになる。

さらに田久保さんの主張は二転三転していた。騒ぎを収めるために議長らに「卒業証書らしき」書類を見せたとも伝わっている。おそらく本人は卒業していないと言う意識があったのではないか。

田久保さんは伊東市でメガソーラーの反対運動などに参加。現職市長が推進する新図書館計画の中止を決めた。つまり「箱物行政を推進する現職市長に対するアンチ」と位置づけられていたことになる。得票数は1万票あまりの僅差だったという。

虚言というか場当たり的というか表現には迷うところだ。余り強い言葉を使うと名誉棄損になりかねない。ただ、いずれにせよこの人が今後なにかを発言しても「信じていいものか」と考え込んでしまうような人物であることは間違いなく、まともに市政運営ができるとは思えない。

田久保さんは非常にユニークなメンタリティの持ち主。今は「逃げも隠れもしない私は偉い!」という認識になっているという。そのうえで「逃げるのはちょっと違うと思うのよね」と非常に大胆な発言を繰り返しているそうだ。

一方で市議会にはおそらく箱物行政でもたらされる分配に期待していた議員も多かったのではないか。仮に田久保さんを追い出して「図書館を建設します!」と主張して市民は賛同するのだろうか。

東洋経済に2つのコラムが出ている。

2つ目の記事は「既得権打破」に向けたジャイアントキリング型の選挙の危険性が指摘されている。今回の場合「箱物行政に対する反発」や「力の弱い女性が既得権に立ち向かう」という劇場型の図式があった。

そもそもなぜ日本ではこのような問題が起こりにくかったのか。

日本の選挙は「ムラ」意識が非常に強い。地域には名家がありその縁者が選挙に出ると言う世襲型が一般的だ。世襲の場合にはイエとその縁者たちが事実上の身元保証人になる。イエは常に周囲に対して分配などの「お心配り」をしなければならない。

日本で世襲が嫌われるようになったのは地縁・血縁の恩恵を受ける人たちが減り労働組合などの組織率も下がってきているからだろう。分配構造に加われない人たちが増えているのだ。

世襲型選挙から脱却しつつある日本人は「新しい選挙」に慣れていない。このため非常に興味深い現象が起きている。

一つは形式への過度なこだわりだ。今回の場合は「公職選挙法」というルールに違反するかが問題になっている。つまり公権力が田久保市長から権力を奪ってくれることを期待する。市民が結束してなんとかしようということにはならない。

もう一つが市役所への苦情電話だ。市役所の職員の立場にたてば「ろくに人物の経歴も調べずに投票したのはどこのどいつだ、こっちだって迷惑しているんだ!」で電話をガチャ切りしてもよさそうだ。

しかし、市民は「お客様」であり仰せご尤もで電話を受けなければならない。更に市民も「あの市長をなんとかしろ!」と市役所に電話をすればなんとかなるものだと思い込んでいる。

日本は世襲から脱却しつつあるが、主権者意識は育っていないということがわかる。自らが選んだ人に対して責任を持つと言う意識を持たないのである。