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謎のコンプライアンス違反 日本テレビの国分太一氏対応は何が間違っているのか


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日本テレビが国分太一氏に対する会見を行った。プライバシーを理由に詳細を発表しなかったことで会場は騒然としたようだ。この対応は日本テレビを含めた日本の地上波放送が報道機関としてはすでに死んでいるという単純な事実を示しているが。

ただ、あらためて何がいけないのかと問われると答えるのが難しいと感じる人が多いのではないだろうか。

日本人が議論や総括が苦手だということがよくわかる。

コンプライアンス(法令遵守)の目的は、関係取引先を含めたすべてのステークスホルダーが働きやすい職場環境を作り維持ことだ。重要な企業の責任の一つである。このため企業は取り組みを通じて行動規範を明確に示さなければならない。

ところがマスコミはコンプライアンスを祟りのように扱っている。マスコミは晴(ハレ)の存在でなければならないが穢(ケガレ)がつくと後々祟られることがある。祟り神の名前は世間様という。このため穢を祓う儀式として会見を行うのである。

ではなぜこれが「報道機関としての死」を意味するのだろうか。

政治社会課題は当事者間での見方が異なるのが普通だ。報道機関はまず未確定の状態から情報を伝えるため一定のエラーが生じるうえにそもそも正解は一つに確定しないかもしれない。

報道機関が報道機関で有り続けるためには、エラー訂正機能と自己検証機能を持たなければならない。また報道機関どうしの相互検証も重要だろう。

また報道機関は「報道は必ずしも正解を伝えるものではない」と受け手を啓発する必要もある。そのためには啓発の場も作ってゆかなければならない。

しかしながら日本のテレビ局はこうした機能を一切持たない。コンプライアンスが何を意味するのか理解が出来ていないからである。

今回の日本テレビの対応を見ると。上層部がフジテレビを襲った世間様の祟りの災いをみて、自分たちも世間様に祟られては困ると考えたのだろうとわかる。このため世間様に公表する前にまず取締役会に諮っている。後で知らなかったと言われないようにするための配慮だ。

フジテレビ問題は「コンプライアンス神を怒らせると世間様の祟りによる災いを招く」問題として扱われている。報道機関という名のムラ社会ははフジテレビ問題を総括できていないのである。

同じような事例はTBSでも確認されている。田原俊彦氏が爆笑問題のラジオ番組に出演し、女性アシスタントの手を触った。ところがこの女性アシスタントはTBSテレビの報道番組「報道特集」のキャスターでもあった。

山本恵里伽キャスターは報道特集でジャニーズ問題などの社会課題を扱っている。この番組は1つの問題に対してキャスターたちが取材を分担・持ち帰り・総括したうえで一つの番組を作り上げている。山本恵里伽キャスターもこうした過程でテレビ局における女性の存在について具体的な知見を持ちなおかつ言語化も出来ている。

あらかじめ言語化が出来ていたため、田原俊彦氏から突然手を触られたときも慌てることなく対応ができた。「ホントにダメですよ、ほんとに。やめてください! 読まないからね!」と宣言したそうだ。ところがこれが放送電波に乗ったことでTBS上層部は対処しなければならなくなる。共同通信によるとTBSの発表で田原俊彦氏は「男性ゲスト」と表現されている。共同通信の記事は「男性ゲスト」が田原俊彦氏であるとは書いていない。

法令遵守が何を目的にしているのかがよくわからないため「なんとなく腫れ物に触るような」扱いになっている。これが日本のメディアの現在地である。

法令遵守が「女性を含めた社員・関係者が安心して働ける職場づくり」を目指しているとすると、報道は「田原俊彦氏を罰する意図はないが、TBSはこのような行為を決して容認しない」との姿勢を明確にすべきだったのだろう。

こうした規範づくりにはもちろん男性も参加すべきだ。一方的な規制はやがて大きな反発や揺り戻しを生む。アメリカで今起きている「反意識高い系」の動きを見ると対話は極めて重要だと感じる。

このように考えてゆくと、問題の核心は、日本の「いわゆるオールドメディア」が独自のスタンダードを作り・維持し・更新することができなくなっているという機能不全なのだとわかる。

TBSが今回の会見について報道しているが、そもそもコンプライアンスが何を目的にしているかには注目せず「細かい事実」にドリルダウンしてゆく傾向がある。何を探しているのかわからないのにどんどん掘り進めてゆく傾向があるのだ。

目的や大きな地図の喪失は何をもたらすか。

おそらくメディアは「白黒はっきりした」問題しか扱えなくなる。具体例をあげると政府報道と警察発表だけだ。つまり報道機関であることを捨てて広報機関に成り下がるしかない。

これを補っているのがネットの声である。すでにYahooニュースでは「ネットでは批判する声が渦巻いていた」という無責任な総括記事が増えている。こうした「ネットの意見」はもちろん一つにまとまることはない。なんとなく世間が騒然とし「人の噂も七十五日」で飽きられて忘れ去られてゆく。

残るのはモヤモヤとした気分だけだ。

冷静に考えると今後日本テレビは大きな地雷を抱えることになったともいえるだろう。

今回の事例は内部的に日本テレビが察知したために週刊誌報道などが一切行われていない。おそらく週刊誌はこの裏で日本テレビが何かを隠しているのではないかと探し始めることになるだろう。なにか見つかった場合「世間様」がこれを許してくれるとは思えない。

これを防ぐために当事者である国分太一氏と(被害者がいるとすれば)被害者も口を貝のように閉ざさざるを得ない。

法令遵守の役割を「基準の明確化を通じてステークスホルダーに働きやすい環境を提供する」ことだとすると、日本テレビの対応は明らかに間違っている。ステークスホルダーは「一体何が良くて何が悪いのか」がわからなくなる。さらに自分が今何かを話してしまうと世間様の祟りが会社を破壊するのではないかと怯え続けることになる。

ただし、日本企業がこの手の問題を扱えないのは今に始まったことではない。インターネットが今のように流行する前の出版社にも「書いてはいけない用語」というものが多数存在した。これが言葉狩りになり筒井康隆氏の「断筆宣言」を招いている。

出版社の過剰な危機回避が作家の反発を招いた。断筆宣言を行った筒井康隆氏のもとには批判が殺到したそうだがリアルなイベントや当時まだ珍しかったオンラインで議論を起こし少しづつ状況を整理したうえで出版社と和解している。

このような取り組みがなければ今頃出版社はネットで炎上するたびに辞書から一つひとつの用語を消してゆくしかなかったかもしれない。今のテレビにオールドメディアは確実にその道を突き進んでいる。