Grokが南アフリカ関連の話題で人々を一定の方向に誘導しているとして話題になっている。このエントリーでは政治ニュースでAIを使いこなせる人と振り回される人の違いを考察する。違いを理解したうえで上手にAIと付き合いたい。
今回はまず機能的非識字対策として箇条書きで要旨をまとめたうえで文章として展開することにした。
- 最近、Grokが特定の話題で人々を誘導すると問題視されている。
- しかし、AIを使うと馴染のない問題について情報を簡単に集めることもできるのも確かだ。
- では、AIをうまく使いこなせる人はどういう人か? GIMODOは次のような点を挙げている。
- 言語化力があり知りたいことを言語化できる
- 探索と絞り込みの切り替えがうまい
- 情報の質が見極められる
- 試行錯誤に慣れている
- このうち探索と絞り込みの切り替えは特に重要だ。AIは多くの情報を提供してくれるため知りたいことが明確でないと情報が飽和してしまい判断力を失う。
- 情報飽和を起こした状態でAIの言われるままに絞り込んでゆくとGrokの罠にハマる。
- 絞り込みのためには次の点を意識すると良い
- ニュースの5W1H
- そもそもなぜそのニュースが大切なのかという視点
- 既存のジャーナリストの各文章はこの点がうまくまとまっている。闇雲に排除せず積極的に参照すべきだろう。
- また「機能的非識字」の問題がある。
- 機能的非識字を解消するためには箇条書きも重要だ。
- 自分で箇条書きができれば要点を絞り込む訓練ができる。
- 時間がない人はAIを活用するのが良いのかもしれない。
- 探索と絞り込みを理解したうえで情報収集をすれば、AIに振り回される人ではなく使いこなす人になれる。
Grokが様々な手段を使って人々を「南アフリカで白人が虐殺されている」という方向に人々を誘導しようとしていると指摘されている。中には関係がない話題から誘導されたという人もいて問題視されているそうだ。社主のイーロン・マスク氏は南アフリカ出身であり「南アフリカで白人が虐げられている」という自説にこだわっている。
確かに南アフリカには政情不安がある。マンデラ政権が宥和政策を取ったこともあり富の殆どを白人が独占することになった。またマンデラ氏死後のANCはマンデラ人気に依存する一方で企業と癒着している。
南アフリカは全体的に犯罪が増えており白人だけが選択的に攻撃されているわけではない。
しかし世界各国の白人至上主義者は我田引水的にこの問題を利用している。これまで白人は一方的に有色人種を虐待してきているとされていた。しかし南アフリカでは逆に「白人が被害者になっている」として何かを証明した気分になりたいのだろう。
ではなぜこのような問題が起きるのか。
質問・回答サイトのQuoraではAIを使った回答をする人がいる。情報量は多いが散漫な印象だ。AIは短い時間にたくさんの情報を集めてくれるが「自分が知りたいこと」がきちんと把握できていないと情報の刈り込みができない。
情報の刈り込みができないと情報の海に溺れてしまうことになる。検索やAI利用が上手な人はまずたくさんの情報を集めてから「知りたいこと」に従って情報の刈り込みをしてゆく。課題が言語化できており刈り込みが上手い人ほどAIや検索を使いこなすことが上手なのだ。
一方で自分が何を知りたいのかが明白でなく漠然とウェブ閲覧をしている人はAIが提供する情報に圧倒される。そのためAIがプログラミングに従って人々を誘導してもそれに気が付かないかもしれない。
近年ではオールドメディア批判をよく目にする。しかし既存メディアは5W1Hにしたがって情報をまとめており、そもそもなぜこの問題が重要なのかもきちんと提示してくれる。最終的に受け入れるかどうかは個人の自由だが「まずは受け止めてみる」のが良いのかもしれない。
もう一つの問題は機能的非識字だ。「日本語で書かれると文章の構造が理解できない」人がいる。専門用語が入ると特に難しく感じる。自分でもやってみたが2番目の回答を間違えた。生物化学用語に不慣れなためだろう。これを克服するためには「箇条書き」が有効なようだ。
もちろん箇条書きは自分でやった方が良いとは思うのだがAIに箇条書きを任せることもできる。時間がない人はまずAIに箇条書させてから文章を読んでみるのも手なのかもしれない。
新しいテクノロジーが出てくるといたずらに敬遠する人が出てくる。しかし、政治課題のみならず様々な課題について情報を集めるうえでもAIの利用は有益な手段だろう。ただしそもそも自分が何を知りたかったのかという問題意識をきちんと持っておかないとAIに振り回されることになってしまうのかもしれない。
新しい技術とは上手に付き合いたい。
Comments
“政治ニュースでAIを使いこなせる人とAIに振り回される人の違い” への6件のフィードバック
Alexandra問題で、自分の機能的非識字を認識できるとよいのですが、SNSを見ると、問題文がおかしいだの論理的でないだの言ってしまう人が一定数いるのを見ると、色々と心配してしまいます。SNSで挙げられていたAlexandra問題は、たしかに名称のブレは少しあったけど、読み間違える原因にはならないので重箱の隅をつつくようなものですね。論理的ではないというのは、どこが論理的でないかが理解が出来ませんでした。
日本は義務教育で国語を学びます。国語が苦手な人の中には、「作者の気持ちを答えなさい」問題を批判することがありますが、実際にそういうふうに聞かれることはなく、文章に書かれている感情の理由を文章から見つけたり、書かれている文章を言い換えて要約することがテストでは求められています。
国語では書かれていることからしか答えを求めてはいけないので、実際の日本社会に求められる「空気を読む」「行間を読む」などをすると間違えてしまうのですね。
現代ビジネスのWebに、「『ドラゴン桜』太宰府治先生が教える、東大合格のカギ「読解力」を鍛える方法」という記事がありました。今回のことと関係していて記事です。特に、「国語は科学です! 科学である以上 合理的 論理的に解析し 帰結を導き出すのです」というところが重要だと思いました。文系の論文でも、論文である以上は論理的であるはずです。しかし、「それってデータあるんですか」という考え方で、文系は非論理的ととらえるのは間違っていますし、データがあれば論理的とらえるのは、もっと間違った考え方なのですね(もちろん、データの存在が論文を質を上げるのに重要であることが分かります)。
私は日本語の自然文は色々と不便だと思うので、構造化すれば便利になるのではって思いました。しかし中には「バカにされている」と思って反論を試みる人がいるわけですね。なんだか新鮮な驚きですが、確かにそういう人もいるんでしょうね。
構造化と聞いて、大学時代に買わされた「論文の教室 レポートから卒論まで」を思い出しました。これを参考にしながら論文を書いていました。どれぐらい成果が出ていたかはわかりませんが、それなりに役立ったと思いたいです。
ドラゴン桜や大学時代に読んだ本を読むと、今の日本において強く求められているのは、ハイコンテクストに頼らない、つまり論文の書き方なんだなと思いました。
個人的にもコンテクストに頼らないマテリアルは大切だと思うんですが……
久々に当ブログのアクセス解析を見ていたのですが「遠くから」「他人事に対して」「感覚的に煽る」ようなタイトルが付いたものが多く読まれていました。論理的な理解とかはあまり求められていない印象です。おそらく政治ブログに解決策は求めていないんだろうなあって改めて思いました。特に日本は構造改革を求められている……なぜならば的なものは全く読まれていないんですよね。
まとめサイトやYoutubeでも、ゴシップ記事の見出しの様なタイトルが多くなったなと思います。昔は、そういうゴシップ記事の見出しをネットで批判していた人たちもいましたが、結局ああいう見出しをつけることで読まれやすくなるのはオールドメディアでもニューメディアでも変わらないんですよね。私も結構そういうタイトルに釣られていると思います。
みなさん名前が出ないところではそういうのを読みたがるんですが、いざ煽ると「お前は煽っている!」とか言ってくるんですよね。