BBCがアメリカ人教皇の誕生にわくアメリカ合衆国について興味深い記事を書いている。アメリカ人が「自分たちのメガネ」を通してしか物事を把握できなくなっていることがわかる。
カトリックは伝統的に人間は等しく神に愛されていると考える包摂的な文化を持っている。一方で「神の摂理」も非常に重んじる。受胎した時点で「個人」となると考えこのときに「神から与えられた性」を後から変更することには否定的な考え方がある。
Quoraに教皇レオ14世の政治的姿勢を「アメリカ流に」整理したコメントが付いている。カトリックの中では一貫した整理ができるが、アメリカ流に分類し直すと「左右」に分裂してしまう。移民政策は民主党的だがLGBTQに関しては共和党的になってしまうのだ。いわゆる「右や左」という絶対的に見える価値基準も意外と文脈に左右されていことがわかる。
このため民主党支持者(左)はLGBTQ問題で教皇レオ14世の見解に不満を感じているようである。
しかしトランプ支持者の戸惑いはそれ以上である。アメリカ・ファーストは厳密にはキリスト教的価値観ではなく「トランプ教」になっていることがわかる。
教皇レオの選出に「あぜんとした」と、スティーヴ・バノン氏はBBCに話した。バノン氏はかつて、トランプ氏の首席戦略官だった。
新ローマ教皇はアメリカ人、しかし「アメリカ第一」ではない…トランプ支持者ら不満(BBC)
「ツイッターのフィードや声明で、アメリカの有力政治家たちに反対する姿勢を示し続けた人物が、ローマ教皇に選ばれるとは衝撃だ」とバノン氏は述べた。
強硬右派でトランプ氏に忠実なバノン氏は、カトリック信者で、少年時代には礼拝の手伝い役を務めていた。そして、バノン氏は、教皇レオとトランプ氏の間には「間違いなく摩擦が生じる」と予想している。
ローラ・ルーマー氏はカタールの首長を「スーツを着たジハーディスト」と罵るだけでなく教皇もマルクス主義者と呼んでいる。自分たちの価値観に見合わないものはすべて「社会主義者」なのだ。分類があまりにも雑すぎる。
トランプ氏が意見を聞き、閣僚などの人事に影響力をもつとされる極右のインフルエンサー、ローラ・ルーマー氏は、新教皇を「反トランプ、反MAGA、国境開放支持派、教皇フランシスコのような完全なマルクス主義者」と呼んだ。
新ローマ教皇はアメリカ人、しかし「アメリカ第一」ではない…トランプ支持者ら不満(BBC)
では、アメリカにはキリスト教と異なる「トランプ教」が出来つつあるのだろうか。必ずしもそうは言えない。むしろ全く考え方が異なる人達を内包しているために今にも崩壊するかもしれない危険な状態だ。
先日「大きくて美しい法案」が一歩前進したというニュースがあった。下院がトランプ減税の恒久化法案の関連法案を委員会採決したためだった。
しかしながら、ジョンソン下院議長は各論を詰めきることができず法案の委員会採決は難航することが予想されていた。
トランプ大統領推進の減税案、共和党内の対立で下院通過に遅れも(Bloomberg)
Axiosの最新の記事によると「大きくて美しい法案」は委員会で否決されてしまった。
Axiosはメディケイド削減で共和党議員の間に隔たりがあるとしている。
アパラチア山脈のルポなどを見るとメディケイドに依存している人は多い。この地域はラストベルトよりもさらに貧しい産炭地であり、現状に不満を持つ人が多く共和党を支持している。もちろん「政治が何かをしてくれるとは思わない」と嘯(うそぶ)く人もいるが、彼らの一部はトランプ大統領が既得権益を打ち砕き自分たちに手を差し伸べてくれると信じているのだろう。
ABCは政府支出削減がトランプ政権の任期中に完了しないことに不満を持っている議員がいたと指摘している。反対した議員は以下の通りだが特に地域性は見られない。
- アンドリュー・クライド下院議員(ジョージア州第9区)
- ジョシュ・ブレーチーン下院議員(オクラホマ州第2区)
- ロイド・スマッカー下院議員(ペンシルベニア第16区)
- ラルフ・ノーマン下院議員(サウスカロライナ第5区)
- チップ・ロイ下院議員(テキサス第21区)
もともとトランプ大統領の政策には一貫性がない。これは関税政策一つとってもよく分かる。アメリカに製造業を戻すべきだと言ってみたり自分は自由貿易を支持しているなどと言ってみたりする。また関税そのものが収入になるというときもあれば、関税はディールを引き出すための道具に過ぎないとも主張する。
共和党の中にもメディケイドなどの支援を必要としている人と将来的な増税を危惧している人達がいる。つまり援助される側とする側が同じ政党を支持しているのだ。
トランプ政権が一貫した国家運営姿勢を示せないうえに共和党下院は1000ページにもわたる大型法案を「大きくて美しい法案」として一括審議しようとしている。
ABCによると共和党は週末にも話し合いを続けるそうだ。何らかの妥協は成立するのかもしれないが「そもそもまとまりようもない」ものをまとめようとしているといえる。
これをどう表現すればよいのか?と考えたところ聖書からピッタリの喩えが見つかった。それがバベルの塔である。聖書の記述に従うとバベルの塔は神の怒りに触れ中にいる人達はお互いに意思疎通ができなくなった。結果的に塔が建設されることはなかった。聖書の時代にもそもそもまとまらないものを無理にまとめようとして崩壊を招くという何らかの事例があったのだろう。